お盆につながる明日ぐらい
どうして僕たちは、発狂もせずに日曜の夜を過ごし、
月曜の朝に仕事へ向かうのだろう。
夕食を片付け、サプリ2錠を水で流し込む。
昨日から久々に触っている恋姫の萌将伝。
学生時代、あれほど泣きゲー・シナリオゲーを誉めそやしておきながら、
このシリーズほど周回したものはない。
――嗚呼、明日も仕事に行きたくない。
仕事への行きたくなさは春先よりこの方、急激なインフレが進行している。
ゴールデンウィーク前のそれが100だとすれば、今は5000兆。
ジンバブエもびっくり。
生真面目な上司が春先に倒れて以降、
「それでも職場は回っている。」と
エラい人は言外に匂わせるが冗談じゃない。現場の我々が回しているのだ。
エラい人にはエラい人なりの気苦労と言い分があるとは思うけど、
そこを慮るほど僕らは給料をもらっていない。
給料を上げろ。話はそこからだ。
とは言え、明日が終わらないとお盆休みは到来せず、
今年が終わらなければ念願も叶わない。
未来は今の地続きなのだ。
――嗚呼、今週もまた自分に懇々と言い聞かせ、
憂鬱な日曜日は憂鬱な月曜日へと続いてゆく。
謀ったな!白泉社ァ!!!
友人との待ち合わせにはまだ早い。時間つぶしのために立ち寄った某書店。検索端末になんとなく「カハワライズミ」と打ち込んだのは神の思し召しか。
「えっ、『〜がある』シリーズの新刊が出てる!?!?」
「しかも『ワタシの川原泉』の5巻目!?!?しかも笑う大天使!?!?!?!?」
即断即決即購入。自分のアンテナは高いと思いこんでいましたが、それは年がら年中ツイッターを見ているというだけの話。川原教授関連をさっぱりフォローしてなかっただけでこのザマでございます。
しかも、これだけでは終わらなかったのでございます。
笑みを隠しきれずに済ませたお会計。これまたなんとなく目を向けた雑誌コーナー。表紙にデカデカと踊る「川原泉 大特集」の文字。
「まさか教授ではあるまい。たまたま同じ名前の新人作家とかモデルとかそういうオチでしょ………」
手に取り広げたダ・ヴィンチ8月号。
「うわああああああ!!!!!!カーラ教授だああああああああ!!!!!!!!!」
モチのロン、こちらもお買い上げ。2回ともレジを叩いてくれたお姉さんは苦笑いしてました。よっぽどニヤニヤしてたんでしょうね。
いやぁ、生きててよかった。
ありがとう白泉社。
ありがとうダ・ヴィンチ編集部。
そして、川原先生、本当にありがとうございます。
友人Kとの架空の別れ酒
「そーいえば、お前ってなんでM先輩と別れたんだっけ?」
酔いが回って思いついたままに長年の疑問を口にすると、Kは大げさにむせた。
「……ずいぶんと昔の話を掘り返しますねぇ?」
「さあて、自業自得じゃないですかね」
「今でもS子先輩に未練タラタラな誰かさんと違って、こちとらあの時にすっぱり終わった話なんですが」
「そう、それよ」
一旦言葉を切って正面のKを見据える。顔が真っ赤になっているのは、体質のせいらしい。アルコールに特別弱いわけではなく、身体が反応するのが早いだけなんだとか。
「なんであんなにすっぱり別れたん?」
高校からの付き合いで大学も一緒だったKは、妙に馬が合うやつで、僕にとっては数少ない腹を割って話せる同い年の友人である。だから、彼の高校時代の「恋愛譚」は他の人よりも詳しいところまで知っている、はず。
高校2年当時、Kには同じクラスに彼女がいた(ちなみに僕も同じクラスだった)。仮にAさんとしよう。KとAさんは、クラス替えの直後から半ば公然の仲となっていて、Kが真面目な顔で「Aと付き合うことになった」などとのたまった時は、誰もが今更過ぎてあきれたほどだ。はた目から見ていてもすごくお似合いで、文化祭のベストカップルにノミネートが噂されていた、そんな二人だった。
ところが、(公式に)付き合い初めて1ヶ月が過ぎたある日、KはAさんを一方的に振った。理由は、Kの心変わりだった。
「『心変わり』とは心外な。実際、俺はAよりもM先輩のほうが好きだったんだからな。むしろ本来あるべき道に戻った、もう『純愛』とすら言えるだろう?」
大仰な身振りで芝居がかったことを言うさまは、事情を知っているだけに滑稽だった。Aさんのことをつつくといつもこうだ。高校時代は半分くらいは本気でそう考えている節があったが、今僕の目の前にある自嘲の笑みにはあからさまな後悔が透けて見える。
実は、Kは1年生のころから、親しくしていたM先輩に「片想い」をしていた。学年が上がるころにその「片想い」が実らないと踏んだKは、それと同じタイミングで急速に親しくなっていったAさんといい関係になり、付き合うまでになった。そしてM先輩はその件でKをイジり倒し、Kも開き直って惚気話をしていた。周囲はそれを当人たちの持ちネタとして笑って見ていた。
ところが、「あることがきっかけで」、KはM先輩のことが未だに忘れられない自分に気が付き、その場の勢いで気持ちをぶちまけてしまった。そして、実は両想いであったことが判明してしまう。想い人に惚気話を聞かされ続けた鬱憤がたまっていたM先輩も自分の感情を抑えきれなかったのだ。予想外の告白に直面したKは、「苦悩」の末にM先輩の手を取ったのである。
「話を戻すけど、あれだけの経緯があったのに、なんであっさり別れたん?」
「簡単な話よ。価値観が絶対的にかみ合わないとわかったから」
「……もうちょい詳しくプリーズ」
「M先輩に振られた時な、メール1通で済まされたんよ」
「それは聞いた。気持ちはわからんでもないけど、きょうび珍しいことでもあるまいに」
「先輩も同じように考えたんだろうな。でも、それが決定的だった」
Kの表情が一気に険しくなる。
「俺は、直接顔も合わせずに告白するとか振るとか、それだけは絶対にありえないしあってはいけないと思ってる。面前で断られる覚悟もない告白なんて、はっきり言ってそんなものは自慰だ。別れを切り出すならなおさら、相手と直接向き合わずに済ませていいものじゃない。この手の話は、先輩にも何度もしていたつもりだった。それに、――これはお前には言ってなかったけどな、Aと別れる時は、缶のペンケースを至近距離で思い切り投げつけられた上に渾身の顔面グーまでお見舞いされたんだぜ?」
……あのAさんがそんなことを?
「そりゃ、自分を好いてくれる人に『別れてほしい』なんて伝えるのはツラいさ。でもな、当たり前だけど、言われるほうはその何倍も、何十倍もツラいんだ。別れを切り出す側は、絶望に染まった表情を直視して、グーとかパーぐらいは甘んじて受けなきゃいけない。その程度の覚悟もなしに――と、我ながらだいぶクサいことを言っているな」
「……」
「まあ、普通に考えても、2年近く付き合ったのにメール1通でサヨナラじゃ100年の恋も醒めるし、粘って付き合い続けても早晩ダメになるのが目に見えてるって話でしょ。ほら、俺って現実主義だから、無駄な抵抗はしないっていうか」
Kは妙に饒舌になり、僕はしばらく黙って聞いていた。二人とも酒がまわってきたんだろう、たぶん。
「……S子先輩さ、ちゃんと目を見て振ってくれたんだろ?」
「……ああ」
「それなら引きずってもしょうがないよな」
Kは一人で納得した顔をして手酌した。
「だから引きずってないっての」
知ってはいたが、人の話を聞かないやつだ。
虚構の生徒会
生徒会というシステムは、責任の所在をあいまいにするためのクッションである。例えば生徒のあいさつや身だしなみ、そういった終局的な解決が不可能か著しく困難である事項こそが生徒会の仕事とされる。そして、解決できない場合の責任を負う者は事実上存在しえない。なぜなら、それは「生徒会の責任」であるからだ。
「生徒会の責任」には二つの意味がある。一つは、それはあくまで生徒会という団体に帰属する責任であるということ。この点において、教職員が負うべき責任は限定的になる。生徒会という組織が職員会議の指揮監督下にあるという事実は、「生徒の自主性尊重・生徒会の自治」という政治的に正しい建前によって隠蔽される。
もう一つは、生徒会の生徒が直接責任を負わないということ。先述した通り、「生徒会の責任」は生徒会という団体に帰属する。そして、仮に生徒会役員が責任を負うのだとしても、役員の生徒には責任の取りようがない。役員の任期は1年で普通再任はありえず、再任されることのメリットもほぼない。「責任を取って辞職」したところで、誰が困るわけでもない。
自明なことに、生徒会そのものにはほとんど権限がない。あるとしてもそれは、職員会議から付与された限定的なもので、わずかばかりの強制力は、教職員の心証という不確かなものに裏付けられている。権限と責任を欠く自治組織は、果たして「自治組織」たりえるのか。結局のところ、生徒会の自治とはフィクションである。
2年前のメモ「PCを捨てよ、部屋から出よう」
非日常的、ないし非現実的な出来事が起こるには、その余地がなければならない。日常が「自分」や「既知」、「習慣」だけに満たされていては、ハプニングは起こり得ない。
例えば、生活環境が大きく変わるには、安定が欠けなければならない。両親の不在、土地や縁者とのしがらみの欠如。そういった条件がなければ「どこか、とおく」へと生活がガラッと移動するわけがない。幸福なことに、何度強調しても足らないほど幸福なことに、私の人生は「満たされている」。両親も親戚も健在、出生や成長に関して不明瞭なことはない。……いや、もしかしたら、物心つく前の自分の写真は自分ではないのかもしれないけれど。
話がずれる。
極論、「空から女の子が降ってくる」確率は(主人公補正を覗けば、という冗談は抜きにして)各人において平等である。無論それは「オーナイン」レベルの極小のものであり、想定する事象がネガティブなものであれば、字義通り「杞憂」と言わざるを得ないものである。だが極論は極論であって、例えば近所のじいさんと仲良くなるとか。そういうレベルの(少なくとも創作の中では)ありふれたものを考えたい。近所の御隠居と碁盤を挟むためにはとりあえず家から出なければならない。きっかけがなければならない。
「いま、ここ」の範囲で「いま、ここ」から脱却するためには、ハプニングを受け入れる余地がなければならない。そして、その余地を作るのは、大体において、積極性である。
「空から女の子が降ってくる」確率は「オーナイン」だと言った。それは、この例が受け身の極論であるからだ。女の子が空から降ってくることに、私はなんの関与もできない。いや、それはご老人が道端で腰を痛めることもまた私の関与できない事象であろう、という反論は勿論その通りだ。しかし、それはある意味「ありふれた」ことであり、人によっては完全に背景に溶け込む事象である。
一方、「空から女の子が降ってくる」事象は、「ありふれた」という形容詞の正反対である。この事象は決して日常の背景として溶け込めない。それは暴力的に我々の日常を侵略する。我々はその女の子(もちろん絶世の美少女!)を無視することはできない。ところが、我々は道端で腰を痛めたおばあちゃん(もうじいさんでもどっちでもいい)を無視することはできる。もし日常が「自分」「既知」「習慣」で埋め尽くされていたら、道端のおばあちゃんが私の日常に侵入する余地はない。しかし、余地があればもしかしたらそのおばあちゃんは我々の日常に侵入し、目の前に事象として現れるかもしれない。
ふと、以前高校の先生が言っていた話を思い出した。「黒板」というモノを知らない人には壁と黒板の境目がわからない、らしい。今になるとなんとなくわかる。國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』に出てきた議論を借りると、環世界というやつだろう。ノミが動物のにおいと熱だけの世界で生きていれば、道端の老人は目に入らない。完全に景色と一体化する。
我々だってそうかもしれない。私たちの世界に腰を痛めたおばあちゃんはその他の見知らぬ通行人と同じで境目がないかもしれない。我々がそのおばあちゃん宅でお茶をごちそうになるには、まずおばあちゃんに気が付かなければならない。そしておばあちゃんを発見するためには道を歩いていなければならないし、その前に家から出なければならない。
強引な議論だろう。しかし、これだけは言える。
我々が「女の子が空から降ってくる」ことを望むのは、満たされた(おそらく「自分」で満たされた)世界を自ら壊すことなく、受動的に世界を破壊したいと願うからだ。現状の心地よい世界を破壊することで生じる責任やその結果つきまとう後悔や罪悪感を負いたくないのだ。
3年前のメモ「告白とは、どんな形にせよ、究極的には友好関係の破壊である」
友情で結ばれた関係に一方的に恋愛感情を持ちこむのは、それがいくら“純愛”として美談であっても、友情に対する裏切りだと思う。これは兄妹ないし姉弟(擬似的なものも含む)でも当てはまろう。その発想に立った時、恋愛における悲劇とはロミオとジュリエットのような本来交わりえない外部の他者ではなく、近くにいるがゆえに触れられない者に対する恋慕ではないか。禁忌とは違う。禁忌は外部から与えられるものである。ここで問題とされるのは内面に生じる倫理だ。