架空の森

ろくなことなんて、書けるわけない。そんな日常。

S子先輩との架空の帰り道 その2

「……“愛”と“恋”の違い?」

今までの文脈をガン無視したその質問に、案の定、S子先輩は怪訝な顔をした。

「昔……そう、高2の春ですね。クラスの女子にいきなりメールで聞かれたんですよ」

「なんでそんなこと覚えてんの?」

「覚えてるというか、今ふっと思い出したんですよ」

「へぇ……」

なんだか胡散臭そうな目をされた。地味に傷つく。

「で、その時はなんて答えたの?」

「今思い出すとすっげー恥ずかしいんですけどね。確か、『恋は結局のところ自分のためで、愛は究極的に相手のためだ』みたいなことを書いたような……」

「ひゅー、かっこいー」

「やめて!恥ずかしい!お嫁に行けない!」

軽く「じゃあアタシがもらってあげよう」と続けてくれたらちょっと嬉しかったのだけど、さすがに注文通りにコトが進むなんてことはなかった。

「で、今はどう考えてるの?」

「……言わなきゃダメですか?」

「話振ってきたのはそっちじゃん」

無論、元から持論を披瀝したかったが故の一連の問答だった。そういう語りたがりな性格は付き合いが長いだけあって理解してくれている、ような気がする。

「前にフラグの話をしたのは覚えてます?」

「ああ、あの食パンくわえて曲がり角でぶつかれば……ってやつでしょ?」

「ええ、あれは極論ですけどね。俺らは小説に限らず、多くのメディアで恋愛にまつわる物語を知っていて、多少なりともそれを共有しています。その物語は必ず『AとBがくっつく』といった結果に向けて書かれます。つまり、結果から逆算して物語は作られなければならない、物語はその結果を導くものでなければならない、というワケです」

「曲がり角のベタな展開がまさにそれだと」

「自分で言っておいてなんですが、本当に極端な例ですね。『AとBは角でぶつかった。故に二人は最後には恋に落ちた』……かなりの単純化ですが、ここには完全とは言えなくても一定の論理がある気がしません?」

「まあ、なんとなくは」

「この論理が共有される当事者間でイベントが実際に起きた時、そこには双方が『恋に落ちる』可能性が開けます。これを俺は『フラグ』と呼ぶことにしました。恋愛マニュアルが普及したバブル期を経て『恋愛とはかくあるべし』という考えが広く浸透した現在においては、フラグを立てることはそこまで難しいことではありません。小手先のテクニックだけでイベントを起こすことはたやすいのですから」

「じゃあなんで君には彼女ができないのさ?」

「それはフラグが『恋の始まり』として成立するか否かが最終的に運任せだからです。あと、『できない』んじゃなくて『いない』だけです」

ついでに本当は先輩がつれないからです。

「相手がそれと気づかないかもしれない、完璧に見えて実は綻びがあったのかもしれない、そもそも相手が論理を共有していなかったのかもしれない。……フラグはあくまでも可能性を開くものにすぎません。何故かと言えば、それは結果論的にしか評価できないからです。だから、『AとBがくっついた』という事態が発生した後に、その経緯を分析して原因を挙げることはできます。でも、例えば最先端のコンピューターがプロ棋士に敵わぬように、あるいは、有能な気象予報士が天気予報を外すように、天才経済学者が今後の経済を読み切れないように、今ある状況を完全に読み切って必ず上手くいく手段を見つけることなんて無理に決まっているのです。……なんの話でしたっけ?」

「おい」

「いやぁ、最近物忘れが……」

「あたしより若いくせに」

「それはそうと」

歳と体重の話はレディーの前ではご法度。知らんぷりして流すに限る。

「俺が思うに、結局のところ、愛とは『結果的に上手くいった恋愛』であり、恋とは『上手くいかなかった恋愛』です」

「ハッピーエンドなら愛で、そうじゃなきゃ恋ってこと?」

「いえ、この場合の上手くいったかどうかの判断基準は、物語として美しいか否か、いや、美味しいか否かです。例えば恋人が死んでしまえば、生き残った側がそれを愛と言っても差し支えない。それはこの場合が『上手くいった』側、『美味しい』側だからです。恋人の死ほど物語として美味しいものはないですよ。『純愛』を謳う数多の作品、たいてい恋人は死んでいるじゃありませんか。むしろ、その死が『フラグ』として機能することすらあるわけです」

一度言葉を切って、先輩の顔をじっと見る。

「『失って初めて気づいた。本当は、私はあなたを愛していたのだと』……この手のセリフで“恋”を叫ぶことがありましょうか?仮に当人はそれを恋と叫んだとしても、受け手の側――その他登場人物、そして読者――はそれを『(純)愛』だと思うのではないでしょうか?……ああ、自分でもそろそろ何を言っているのかわからなくなってきました。いい感じにまとめるとするなら、恋愛に関する諸々は、畢竟、事後的にしか語れないのだと思っています」

「……なんとなく言いたいことはわかるよ」

先輩は完全に僕から目をそらし、空を見上げた。

「でもそれじゃあ」

あまりに寂しすぎやしないか。S子先輩は、私の想い人は、そうつぶやいた。

奇遇なことに僕もそう思う。

ピカルディの未解決 【ホワルバ再考 #1】

 『WHITE ALBUM 2~coda~』における冬馬かずさと北原春希の関係は、アニメ版『シスター・プリンセス』における咲耶と航の関係に少し似ている。

 咲耶が「お兄様ラブよ」と臆面もなく言えるのは、航がそれを正面から受け取らないとわかっているからだ。もし航が咲耶を受け入れてしまったら――彼女がそれを期待していないというのはウソだとしても――、咲耶は二度と「お兄様ラブよ」なんて口に出せなくなってしまう。だってそれは、1対12の等間隔な関係というウェルカムハウスの原則を木端微塵に破壊することになるのだ。そうなってしまっては、咲耶は妹たちとはおろか愛しのお兄様とも一緒に暮らすことができなくなってしまうことだろう。その結末は、咲耶と航を含む誰しもが望まない幕切れだ。たとえ、みんなでの生活が最初から3年で終わってしまうことが決まっていて、皆がそれをしっかりわかっているとしても。

 だから、咲耶のアプローチは、のれんに腕押しでなければならない。隣り合って住むかずさと春希の関係も、それと相似だ。トムとジェリーのごとく、追われる者は追われ続けなければならない。どちらの二人も、共犯関係によって成り立つ矛盾した追いかけっこなのだ。

finale,そして大団円

 月並みな話、「人生を変えた一冊」という大層なものを聞かれた時は何と答えるだろうか。真面目に、少し格好つけて答えるなら、アンドレ・ジッドの『狭き門』。もしくは、10年ほど前に読み、青春時代を村山由佳に費やすきっかけになった『おいしいコーヒーのいれ方 キスまでの距離』か。

 正直なところ、この手のパーソナルな質問は、優柔不断でなおかつ語りたがりの自分が前に出すぎてしまって、短い時間では上手く説明できずに消化不良になることが少なくない。だから、「好きな食べ物」の類いの質問はあまり得意でない。仕方がないので「カレー」と書いたことは何度もあるが、多分、カレーよりも好きな食べ物は他にいくつかあるような気がする。

 

 閑話休題、先ほどの質問に真剣に答えるなら――厳密には「一冊」と呼んでいいかわからないけれども――、Leaf(シナリオ:丸戸史明)の『WHITE ALBUM 2 ~introductory chapter~』を外すことはできない。だって、あれからもう4年以上も経つのに、私は「introductory chapter」の衝撃から未だに自由になれずにいるのだから。

 それなのに私は、続編「closing chapter」を3年前にやって以来、最終章の「coda」だけは手を付けられずにいた。この4年間、「introductory chapter」で描かれた悲劇と、ずっと考えた一つの解決策に拘泥していた。だからきっと、制作側から「正答」を提示してくれるであろう「coda」には手が出せなくなっていた。胃を荒らしたくない時期が続いていたというのも理由の一つだが、どう転んでも、逃避していたというのが正鵠を射た表現だろう。

 頭のどこかでそろそろけじめをつけるべきだと感じていたんだと思う。一応前作にあたる『WHITE ALBUM』、そして丸戸氏がシナリオを手掛けた『世界でいちばんNGな恋』。何気なく選んだこの2作品を一気にやり切った時、ようやくパンドラの箱を開ける決心がついた。

 

 全ルートを終えた現在、率直に言って、開けてしまったことと今まで開けなかったことのどちらを後悔すべきか、判断に迷っている。加えて、やっている最中に書きなぐったメモや、4年間ずっと温めてきたホワルバ2についてのあれこれ等々、書きたいことが山ほどあって頭がパンクしそうだ。全然何もまとまってなんかいない。

 だから、書きたいことを書き切るのは別の機会にとっておこう。なんたって一本道だった「introductory chapter」と違って「coda」は4つもEDがあるのだ。考えを形にするのにもう4年かかるかもわからん。今日のところは、積年の課題を消化できたことを素直に喜んでおくことにしよう。リストのてっぺんに君臨し続けたタイトルを葬って、これで積みゲー崩しも少しははかどることだろう。

 それと、「雪菜trueを最後にとっておけ」と3年前に教えてくれた雪菜派の友人に感謝しよう。だって、ダブルヒロインのくせに、かずさtrueと雪菜trueの差があまりに大きくて。もし前者を最後にとっておいたら、4年前よりいくらか丈夫になった胃でもエライことになってたんじゃないかって。かずさ派の私としては釈然としないものはありつつ、ハッピーエンド主義者の私としては、今晩なんとか眠れそうなことを上と合わせて喜びたい。

 

 「WHITE ALBUM 2」は名作だった。あと10年はこれを超える作品に出会えないんじゃないかって名作だった。……とは言いつつ、そういう作品に再来年あたりにはまた会えるんじゃないだろうか。だからこの業界からなかなか足を洗えない。積みゲーの山が崩れるのは、二重の意味でいつの日やら。

架空じゃない帰り道

 茜色というのは、イメージしていたよりもだいぶ暗い色のことを指すらしい。陽が沈む前の夕映えではなく、陽が沈んで夜の帳が下りる直前の赤*1。勘違いしていたほうを何色と呼ぶかはわからないけれども、段々と茜色へと移り変わってゆくグラデーションは、掛け値なしに綺麗だった。

 そんな空を眺めながらひたすら西へ西へと歩いた帰り道。全曲シャッフルのウォークマンから流れてきた「夕映えプレゼント」。CDを買いこそすれ、表題曲の「GOIN'!!!」ばかりをヘビロテしていてほとんど聴かなかったこの曲が、疲れた心身によくしみた。視界が悪かったのは、西日が強かったからだと信じている。

THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS ANIMATION PROJECT 08 GOIN’!!!【通常盤】

THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS ANIMATION PROJECT 08 GOIN’!!!【通常盤】

 

 

 単純なメッセージほど「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」が重要になる、と何かの折に高校の恩師が言っていた。というのも、単純なメッセージそのものには他人を説得するだけの力がないため、説得力は発言者自身に求めるしかないからだ。これは歌詞についても同じことが言えるだろう。もちろん、歌曲の解釈は詞と曲との組み合わせの上に成り立つものであるが、「耳が悪い」私には「最近の曲は伴奏が似たり寄ったり」なので、詞で判断するしかない場合が多い。そして、友人がJ-popを評して「大半が『I love you』か『I miss you』に要約される」と言っていたように*2、歌詞もまた同じようなことを繰り返しているだけのように感じられる。

 だから、「誰が歌っているのか」というのはとても大切だ。上述の「夕映えプレゼント」の歌詞は、それだけを読むとまっすぐにすぎる。多分私がPでなかったならば、そのまっすぐさに苦笑しかできなかったのではないかと思う。でも、CINDERELLA PROJECTが歌っているとなると、聞こえ方が全然違う。1クールが終了した『アイドルマスター シンデレラガールズ』を思い返して聴くと、西日が眩しくて「泣けちゃう」のだ。

 

 以前『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』で「M@STERPIECE」を聴いたときも同じようなことを思った。アニメから劇場版に至る「今日まで」があってこそ、最後のライブシーンはあらゆる意味で感動的なものになる*3。これらに限らず、アイマス曲はコンテンツの膨大な蓄積によって裏側から「説得力」を与えられている。そしてそれは、アイマスをもっと知っていく中で新たな発見と共に強化されていくのだ。

 見上げるたびに夕焼けの色が移ろうように、アイドルマスターというコンテンツもまた時が立つほどに少しずつ見えるものが変わってくる。P歴が1年にも満たない新米の私をここまでズブズブにハマらせたのは、そうした底のない魅力である。

*1:参照: 茜色 (あかねいろ) の色見本 | 日本の色名 - color-sample.com 

*2:これを言った際に友人が渾身のドヤ顔をしたため、忘れられずにいる

*3:もっとも、ムビマスは何回も見返すことで良さが分かる映画である。初見時のライブシーンはそれまでの展開との「断絶」に不満たらたらだった。

N先生との架空の禅問答

「愛ってなんですかね?」

二人で飲んでいてなんとなく思いついた質問に、N先生は意外そうな顔をした。

「急にどうした。S子となんかあったのか?」

「んな大昔の話を蒸し返さないでくださいよ。いい加減吹っ切れましたし、今現在僕の身辺が綺麗サッパリなのは先生もよくご存じでしょうに。ただの世間話ですよ、世間話」

「なんだ、つまんね」

そう口では言いながら、楽しげな表情を浮かべている。昔っからこの人はこの手の話が好きなのだ。

「これは俺の友人の友人の話なんだがな」

「…拝聴しましょう」

友人の友人、ねぇ。

「あるところにA男とB子という仲睦まじい夫婦がいたそうだ(少なくともA男はそう思っていた)。ところがどっこい、B子はC助って間男と『真実の愛に目覚め』てしまって、書置き一つ残して8時ちょうどのあずさ2号で旅立ってしまったのさ」

「あれってそういう歌でしたっけ」

「細かいことは言いっこなし。――で、A男は悲嘆にくれる。何年も連れ添った最愛の人に裏切られた。そのショックのあまり食事もなかなか喉を通らず、あっというまに激痩せ。それを見かねた幼馴染のD美が世話を焼きはじめる」

それなんてエロゲ

「とにかく、A男は立ち直り、支えてくれたD美とはお互い想い合う関係になり、二人は幸せな日々を送りましたとさ」

「ベタですね」

「と思った矢先、C助に捨てられたB子が帰ってくる。B子曰く『私が本当に愛していたのはあなただったの』と」

「ベタですね。家族法判例集あたりに載ってそう」

だいたい、『真実の愛』とやらは一体どこへ行ったんだ。

「……A男は、B子を選んだんだってさ」

N先生は手元のビールを一気にあおった。何となく目をそらして訊ねる。

「それで、愛ってなんなんですか?」

「それをピタリと表現できたら、芥川賞を飛び越えてノーベル賞間違いなしでっせ、お若いの。だけど、強いて言うなら……躊躇わないこと?」

さっきの話からすればどっちかというと「悔やまないこと」なんじゃないですかと喉まで出かかったけど、それもちょっと違うかもしないと思い、黙ってコップに手を伸ばす。

兎にも角にも、酔ってる上に寝不足の頭ではいくら考えてもわからなそうだ。

わかりやすいダブル・スチールのサイン

 一番好きな川原作品を聞かれると、『笑う大天使』シリーズ*1が真っ先に出てくる。コミックス版2巻までの本編とそれを踏まえての短編3作は、設定やストーリーなど何をとっても素晴らしい。というか、川原教授にドハマりした要因が『笑う大天使』なので、「この作品には教授の魅力が全て詰まっている」とさえ考えている。思い出補正が多分にかかっていることは自覚しつつ、でも最後の卒業式の写真で涙が抑えられなくなるたびに、やっぱりこれが教授の代表作なんじゃないかと思うのだ。

そんな『笑う大天使』より前に、早い話、最初に読んだ作品が『甲子園の空に笑え!』だった。だから、傑作集『ワタシの川原泉Ⅳ』の冒頭に収録されていたのは、すごく嬉しかった。Ⅲ巻冒頭が『銀のロマンティック…わはは』だったことも含め、編集部はいい仕事をなさる。ついでに、表紙袖のホームベースの絵も素晴らしいです。本当にありがとうございます。

 

 

 何気なく父の本棚にあったコミックス版を手に取ったのが全ての始まりで、野球漫画っぽいタイトルなのに野球漫画っぽくなく*2、少女マンガなのに少女マンガっぽくない*3、そんな不思議な雰囲気にのまれて一気に読んでしまった。

 序盤から遺憾なく発揮される教授の独特なセリフ回し、今まで見たことのない絵柄のメリハリ。そして――正直に言ってしまおう、こんな無茶苦茶なストーリーでうるっときてしまうなんて微塵も思っていなかった。それは酷い裏切りだった。あまりに酷い裏切りにあったので、『笑う大天使』1巻にも手を伸ばしてしまった。そして、熱心なファンが一人誕生してしまったのである。

 

 『甲子園の空に笑え!』終盤、広岡監督が決勝戦を前にして

 

心は

お坊様のよーに

澄み切っている

 

川原泉甲子園の空に笑え!」同『ワタシの川原泉Ⅳ』(白泉社、2015年)82頁

 

 

そう独白するところからの流れは、何度読み返しても鳥肌が立つ。それは予想もしなかった急展開や、もちろん恐怖に対するものではなく、ふっと夢の中に入り込んでしまったような感覚に対するものだと思う。作中で豆の木高校の夢は、北斗高校の高柳監督によって、試合を決める最後の一打によって、破られる。それでも私たち読者にとっては、その一打もまた「夢の甲子園」なのだ。そして物語は、こうした言葉で締めくくられる。

 

甲子園まで何マイル?

 

マイクロ・バスで行ったんだー

 

きゃっきゃきゃっきゃとみんなでさー

 

 

――ああ 楽しかったね…

 

同上93頁

 

 

この余韻は、まさしく幸せな夢から覚めた時の寂しさに似ている。もう一つ、上述した『笑う大天使』の最後の写真もまた、この幸せな寂しさに似ている。

 だから私は、川原泉が大好きだ。

 

*1:花とゆめコミックス版(全3巻)、白泉社文庫版(全2巻)。読み切り短編3作は傑作集にも収録されているが、本編を読んでから読むことを強くオススメする。傑作集について唯一不満があるとすれば、この短編3作がバラバラに収録されていることである。

*2:もっとも、何をもって「野球漫画」というかは正直よくわからない。ちなみに好きな野球漫画は『H2』(あだち充)。

*3:当時は「少女マンガ」というと、女友達に無理やり読まされた『僕は妹に恋をする』(青木琴美)の系統というイメージが強かった。「我々が『ワンピース』を読んでいる時に同年代の女子は『僕妹』を読んでいる」という事実は、非常に衝撃だった。

ワタシにとっての川原泉

 ブログ名の「架空の森」は、漫画家・川原泉教授の短編のタイトルから拝借している*1。川原作品のタイトル一覧を眺めて決めたため、タイトルそれ自体に深い意味があるわけではない。一読者として教授にあやかりたいだけというだけである。

 それなのにお恥ずかしい話だが、つい一昨日まで『川原泉傑作集 ワタシの川原泉』のⅢ・Ⅳ巻が発売されていたことを知らなかった。Ⅰ・Ⅱ巻で「短編読み切りを集めた作品集」として完結するものだと思いこんでいて、情報をすっかり見逃していたのだ。

「謀ったな白泉社め!短編集じゃなかったのかよ!このやろう本当にありがとうございます」

と心の中で叫びながら光の速さでポチり、今日ようやく手に入れることができた。

 

 

 

 

 

 身も蓋もないことを言ってしまえば、収録されている作品なんて全部持っている。しかし、4巻とも買ったことはまったく後悔していない。古本屋でまとめ買いした古いコミックス版の比率が高い身としては新しい装丁で読むと新鮮な気持ちで読み返せるし、友人にも押し付けオススメしやすくなった。また、人気投票の結果や読者コメントを見ると、多くの人がカーラ教授を、川原作品を好きだというのが伝わってきてすごくほっこりする(友人は皆「カワハライズミ?誰それ?」なので、同好の士がいるだけでも嬉しい)。

 そして巻末の「自作解説風インタビュー」、ファンとしてはこれを読むためだけに買ってもおつりがくるレベルである。こうしたインタビューやエッセイ*2を読むたびに、そこで垣間見ることができる教授の人となりこそが川原作品の魅力の源泉であると思うのだ。

 例えば、Ⅲ巻収録の『銀のロマンティック…わはは』について。このタイトルは作品の雰囲気を表現しきっている素晴らしいネーミングだと思っていたのだが、教授はこう語る。

 

 タイトルは予告カットを編集部に送るときに決めるんですけど、カットの上に鉛筆で「銀のロマンティック」だけ書いたら「わー、こっぱずかしい」と思って「…わはは」ってつけよう!って…そんだけです。自分を救うためにつけたです。

 

――「…わはは」なしには耐えられなかった?

 

 そうそう。

 

川原泉川原泉傑作集 ワタシの川原泉Ⅲ』(白泉社、2014)322頁

 

 

この感覚がたまらない。経緯を知って驚いた反面、理由がいかにも教授らしくて納得してしまった。

 もう一つ、傑作集を出すタイミングでのインタビューでのやり取りもすごく印象に残っている。

 

 とりあえず、何か食べれば元気出るじゃん、っていう感じはありますよね。人をなぐさめるのに、やさしい言葉をかけることもできるけど、まんがにするとすごくクサくなったりする。食べ物ってすごくいいアイテムだなって思います。泣いた後って、ごはんがおいしいよね。食べなくてもいいんですよ、別に。泣いている人の手に、握らせるだけでいい。「ほら、あったかい肉まんだよ」って。

 

花LaLa online「少女まんが家インタビュー 第2回 川原泉vol.2」2頁(http://www.hanayumeonline.com/interview/02_vol2_2.html )

 

 

 教授の魅力は他にいくらでも挙げることができるが(上手く言語化できないので、それはまた別の機会に)、私が惹かれる一番の理由は上に凝縮されているように思う。

 どの川原作品にもこの優しさが詰まっている。川原教授だからこそ描ける優しさが詰まっている。

 

 ところで、「~がある」シリーズの新刊はまだでしょうか。

 ふと、TYPE-MOONが2013年のエイプリルフール企画で、あるキャラにこう言わせていたことを思い出す。

 「いつまでも 待つと思うな ファンと新刊」

 いつまでも待つつもりではいますが、

 「気長に待つにもほどがある…わはは」

というのが正直なところですので、できるだけ早くお願いします。

*1:同作品は『美貌の果実』(1987年[花とゆめコミックス]・1995年[白泉社文庫])、および『川原泉傑作集 ワタシの川原泉Ⅱ』(2014年)に収録されている。

*2:エッセイ作品では、『小人たちが騒ぐので』(1998[Jets comics]・2002年[白泉社文庫])が特にオススメ。