架空の森

ろくなことなんて、書けるわけない。そんな日常。

陳腐な「はじめまして」に代えて

 手元の辞書で「陳腐」を引くと、「古臭いこと。ありふれていて、つまらないこと」と出る。なるほどその通りなのであるが、「ありふれていて、つまらない」とまで言われる「古臭いこと」は、それだけ繰り返されてきたということでもある。つまり、オリビエ・ポプランが「パターンこそ永遠の真理」と言っていたように、陳腐さには一定の普遍性が混じっている。少なくとも、そこに全く普遍性がなければ飽きられるほどに繰り返されはしまい。

 

 さて話は変わるが、小説やシナリオといった「物語」は結末を導くように書かれなくてはならない。もちろん、物語は論文のように理路整然と綴られるものではない。しかし、だからといって全くの非論理的な物語は「物語」と呼ぶに値しない。例えば、物語序盤でいがみ合っているAとBが最終的に恋人関係になる場合、何故AとBが惹かれあうに至ったかは作中で描写されなければならない。そもそも、その間の経緯こそが物語と呼ばれるものではないだろうか。

 以上のように考えた時、昨日一気読みした『とらドラ!』は少しちぐはぐな物語であったように思う。竜児と大河が結ばれるというエンディングに不満があるわけではなく(読者の大半が予想していたであろうオチだったし)、仮初めの逃避行から「これでいいんだ!」と声を荒げるまでの竜児の一連の選択に文句があるわけでもない。ただ、頭から読み進めていって、なんでこうなったのかがイマイチ腑に落ちないのだ。

 9、10巻だけが取って付けたように、8巻までとは全然違った方角を向いている。そして「取って付けた」ものが、どうも陳腐に思える。その陳腐さは決して嫌いではないのに、「超弩級ブコメ」らしい今までの展開とのギャップにモヤモヤとしたものが残ってしまう。

 

 そのモヤモヤは、今のところ上手く言葉にすることができない。何か浮かぶかもしれないと書いてみても、さっぱり収穫はなかった。

 これからのブログも、こうした思いつきを書き殴ってくものになるのだろう。いつかモヤモヤに名前が付けられればいいな。