架空の森

ろくなことなんて、書けるわけない。そんな日常。

最近つけ始めた日記の序文

 今日において日記とは、決して読まれたくないものであると同時に、いつかは誰かの目に触れることを期待して書かれるものである。

 

 誰かに読んでほしい内容であれば、ツイッターやブログ等で公開すればよい。逆に、誰にも読まれたくないのであれば、そもそも書かなければよい。

 それでも書きたい=読んでもらいたい時は、自らのパーソナリティに紐づかない形で――要は匿名でブログに書けばよい。ネット上で公開しないにしても、電子データだけであれば処理のコストないしリスクはぐんと低くなる。親族が「機械に強くない」のであればなおよい。


 ところが、日記は紙媒体として残る。そこには書き手が紙媒体を選択した意図を見ることができる。

 つまり、書き手は日記を紙媒体として残す。書き手が意図的に残した文章であるという点で、日記は遺書と同じように機能する。

 あるいはこのように言い換えることができる。

 日記とは、日々更新する暫定的な遺書である。


 以上はあくまで日記についての一般論である。「日記」という体裁をとっている限り本紙にもあてはまる。

 しかしそれは、本紙が私の遺書そのものであることは意味しない。

 本当に遺書をしたためる必要があれば、そのままズバリ「遺書」というタイトルと内容にするだろう。少なくとも今は、遺書を用意する積極的な理由をまったく見出せない。


 結局、本稿の趣旨は生半可な覚悟で人の日記を盗み見てはいけないという牽制の一点にある。

 

<一部を加筆・修正>