架空の森

ろくなことなんて、書けるわけない。そんな日常。

君の意思をたべたい【ホワルバ再考 #2】

 懐かしいと思った。

 人との関わりを厭う主人公と、余命幾ばくもない、明るく積極的なヒロイン。主人公を連れまわすヒロインに、やれやれと付き合う主人公。ノベルゲーにはまっていたゼロ年代の終わりを思い出す。あるいは、一番多感だった中学生のころに読んだ三田誠広いちご同盟*1。いずれにせよ、住野よる『君の膵臓をたべたい』に対する感想は、冒頭の一言に帰着する。端的にこういう物語は大好物だ。

 

 

 私を「WHITE ALBUM2 ~introductory chapter~」の絶望から救った「シスター・プリンセス」(アニメ版1期)から、乱暴に要約すれば以下のような希望を見出せる。

いつかは終わりが来ることがわかりきっている。それでもなお、我々はこの関係に留まり続ける。故に我々は幸福である

 私はこの希望を何年も温めてきたが、最近になって疑問が生じてきていた。すなわち、「『それでもなお』に現れる私の(自由)意思というものは本当に存在するのか」と。國分功一郎『中動態の世界』に出てくる、自由意志をめぐるアレントについての議論は、その疑問をさらに深めた。残念ながら、『中動態~』の精読が進んでいないこともあり、これについての結論はまだ出せていない。

 

 さて、強引を承知で言えば、『君の膵臓~』はシスプリのような物語である。ちょうど、島を出るまで12人の妹たちと「兄妹」*2であることを航が選んだように、彼らはヒロインが死ぬまでのあいだ、「友達」とも「恋人」とも呼べない「曖昧な」*3関係性を最後まで続けることになる。そんな彼らの出会いを、主人公は偶然だったと口にする。それに対してヒロインは反論する。

 「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ」

 

住野よる『君の膵臓をたべたい』192頁(2015)双葉社

 ――そうであれば、3人の出会いは3人の意思だったのか。春希が「WHITE ALBUM」を最後の曲に選んだことも、かずさがそれに合わせることを選んだことも、雪菜があの日あの時間に屋上へ足を運ぶことを選んだことも。3人の出会いが3人の意思であったならば、3人は3人のままに留まることができたのではないか。

 

 そんな淡い期待を粉砕する論理はいくらでも存在していて、それらへの反駁を全て準備できているわけではない。それでもなお自説に拘泥してしまうのは、『君の膵臓~』のように、限定的なシチュエーション(限界事例といってもいい)では「曖昧な」関係性が成立しうるからだ。そして、私は「3人が3人に留まるべきだった」と言いたいわけではなく、「3人に留まることを選択し得た」可能性に希望を見出している。言い換えれば、その選択肢が存在し得なかったことに私の、WA2icの絶望はある。

*1:余談だが、これを読んでラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が弾けるようになった人は私だけではないはず

*2:彼らの関係性を一言で表すことは難しい。少なくとも、一般的な意味で「兄妹」という語を使うことは憚られる。簡単に理由を言えば、航と可憐(咲耶でもいい)とが本当に血がつながっているかはわからないし、つながっているかどうかは本質ではないからだ。その一種の曖昧さが本作の特筆点ではあるが、詳細は別稿に委ねたい

*3:関係を表す既存の語では一口に表現できない、と言い換えてもいい