架空の森

ろくなことなんて、書けるわけない。そんな日常。

2年前のメモ「PCを捨てよ、部屋から出よう」

 非日常的、ないし非現実的な出来事が起こるには、その余地がなければならない。日常が「自分」や「既知」、「習慣」だけに満たされていては、ハプニングは起こり得ない。


 例えば、生活環境が大きく変わるには、安定が欠けなければならない。両親の不在、土地や縁者とのしがらみの欠如。そういった条件がなければ「どこか、とおく」へと生活がガラッと移動するわけがない。幸福なことに、何度強調しても足らないほど幸福なことに、私の人生は「満たされている」。両親も親戚も健在、出生や成長に関して不明瞭なことはない。……いや、もしかしたら、物心つく前の自分の写真は自分ではないのかもしれないけれど。
 話がずれる。
 極論、「空から女の子が降ってくる」確率は(主人公補正を覗けば、という冗談は抜きにして)各人において平等である。無論それは「オーナイン」レベルの極小のものであり、想定する事象がネガティブなものであれば、字義通り「杞憂」と言わざるを得ないものである。だが極論は極論であって、例えば近所のじいさんと仲良くなるとか。そういうレベルの(少なくとも創作の中では)ありふれたものを考えたい。近所の御隠居と碁盤を挟むためにはとりあえず家から出なければならない。きっかけがなければならない。


 「いま、ここ」の範囲で「いま、ここ」から脱却するためには、ハプニングを受け入れる余地がなければならない。そして、その余地を作るのは、大体において、積極性である。
 「空から女の子が降ってくる」確率は「オーナイン」だと言った。それは、この例が受け身の極論であるからだ。女の子が空から降ってくることに、私はなんの関与もできない。いや、それはご老人が道端で腰を痛めることもまた私の関与できない事象であろう、という反論は勿論その通りだ。しかし、それはある意味「ありふれた」ことであり、人によっては完全に背景に溶け込む事象である。
 一方、「空から女の子が降ってくる」事象は、「ありふれた」という形容詞の正反対である。この事象は決して日常の背景として溶け込めない。それは暴力的に我々の日常を侵略する。我々はその女の子(もちろん絶世の美少女!)を無視することはできない。ところが、我々は道端で腰を痛めたおばあちゃん(もうじいさんでもどっちでもいい)を無視することはできる。もし日常が「自分」「既知」「習慣」で埋め尽くされていたら、道端のおばあちゃんが私の日常に侵入する余地はない。しかし、余地があればもしかしたらそのおばあちゃんは我々の日常に侵入し、目の前に事象として現れるかもしれない。

 

 ふと、以前高校の先生が言っていた話を思い出した。「黒板」というモノを知らない人には壁と黒板の境目がわからない、らしい。今になるとなんとなくわかる。國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』に出てきた議論を借りると、環世界というやつだろう。ノミが動物のにおいと熱だけの世界で生きていれば、道端の老人は目に入らない。完全に景色と一体化する。

 我々だってそうかもしれない。私たちの世界に腰を痛めたおばあちゃんはその他の見知らぬ通行人と同じで境目がないかもしれない。我々がそのおばあちゃん宅でお茶をごちそうになるには、まずおばあちゃんに気が付かなければならない。そしておばあちゃんを発見するためには道を歩いていなければならないし、その前に家から出なければならない。


 強引な議論だろう。しかし、これだけは言える。

 我々が「女の子が空から降ってくる」ことを望むのは、満たされた(おそらく「自分」で満たされた)世界を自ら壊すことなく、受動的に世界を破壊したいと願うからだ。現状の心地よい世界を破壊することで生じる責任やその結果つきまとう後悔や罪悪感を負いたくないのだ。