架空の森

ろくなことなんて、書けるわけない。そんな日常。

1年前のメモによる鑑賞感想文と注釈

 時たま、「もう恋なんてしないにょろ」*1が無性に聴きたくなる夜がある。でもそうすると、鶴屋さんが頭の中で延々と歌い続けて眠れなくなってしまう。そのせいか、オリジナルのキーが思い出せなくなってしまったし、そもそも原曲に違和感を覚える始末である。そういえば、槙原敬之という歌手があまり好きでないのだ。そんなことすら忘れてしまうほど、私にとってこの曲は「鶴屋さんの曲」なのだ。

 

 それにしても、テンポとキー、そして歌手(?)が違うとここまで曲の印象が変わってしまうのか。サビ最後の「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」というフレーズは顕著だ。オリジナルはどこか未練のニオイがするのに対し、鶴屋さんはそれを清々しさをもって歌いきっている。これは男女差の印象論だろうか。それとも、「槙原」*2に対する同族嫌悪に似た何かによるものであろうか。

 

 ところで、想い人*3に「早くカノジョ作りなよ」と言われる今の状況は、なかなかに楽しい。しかも先方は、こちらの感情を知っているのである。この茶番じみたやりとりの裏にある一種の共犯関係を好ましく思うのは、いささか倒錯のきらいがある。某月某日の一切は表面上まるで存在しなかったかのように扱われ、一方で我々の関係性は無色的なものから「排色的」なものへと変化してしまった。それは一見、私の「全面敗訴」であったと言える。実際、当初用意していたシナリオの中では「最悪の結果」だった。

 

 しかし、それでもなお我々の関係性は途切れることなく続いている。それを素直に友情と呼ぶか、はたまた「擬似的姉弟愛」とでも名付けるかは解釈の次元にあるとして、先方の意思により先述の関係性は支持され維持されようとしている。そして先日、先行問題の実質的解決とその報告行為自体*4により、関係の流動可能性は(時限的であれ)消滅した。選択権の一切を丸投げするという卑怯者に対して、選択するという能動的行為をしてくれたのだ。やはり件の「ゴメン」の真意は、あの日返答を留保したことを謝罪し、瑕疵を治癒することにあったと解すべきであろう。これは「実質的勝訴」である。

 

 無論、「主文上の敗訴」は覆らなかったのだから、当面「カノジョ」*5ができるアテはない。それはそれで残念に思う。だがしかし、「控訴」のチャンスを失ったわけではないし、現状を維持できるだけ幸せなことだ。つまり、「もう恋なんてしない」と言ってしまうには早計だし、かといって「また君に恋してる」と言うのも憚られる。そうなると「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」というのがしっくりきてしまい、しかもそれはベクトルは違えど「槙原」のような未練が消えない。本当に厄介な恋をしたものである。

*1:参照: 鶴屋さん もう恋なんてしないにょろ 槇原敬之1.2倍速 ‐ ニコニコ動画:GINZA 

*2:槙原氏が歌う曲中の「僕」

*3:S子先輩は実在するが、ここで語られるのは彼女を基にした架空の人物である

*4:ある特定のイベントを指す、いわゆる「中二病」的な表現であり、特段深い意味があるわけではない

*5:なぜ鍵括弧付きのカタカナなのかは記憶が定かでない